東横堀川ING2025秋「東横堀川リバーテラス2025秋」
大阪市中央区
2025.9.19
古くから多くの橋が存在し「浪華八百八橋」と称される大阪。橋は交通の要所だけでなく、商いをする空間などとして活用されてきました。本記事では、橋を起点とするまちづくりに取り組む嘉名光市さんと橋上を散策。橋に地域活動を呼び戻す試み「水都大阪ブリッジテラス」(以下、ブリッジテラス)に触れつつ、橋が持つ可能性について話を聞きました。
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水の都・大阪の堀川開発の歴史は豊臣秀吉の時代にさかのぼるといわれ、以降、有数の流通拠点として発展し、江戸時代に「天下の台所」と呼ばれる礎を築きました。運河に架けられた橋の多くは、商いや憩いの場の役割も併せ持ったといわれます。都市ににぎわいをもたらし、さらに美しい景観も形成していたのです。
しかし現在、通行以外の活用がなされている橋はほとんどありません。そんな中、ブリッジテラスは、行政と民間企業や団体、大学がスクラムを組み、橋上のコミュニティ活動を再興する取り組みとして注目されています。
大阪の橋を語る上で外せないキーワードは「町橋」と語る嘉名さんは、まちの資産を生かした地域活性化で多くの実績を持つ人物。建築やデザインの視点を取り入れながら、にぎわいの創出や社会実験に注力しています。今回は、嘉名さんが主要メンバーとして携わる嘉名さんのもとを訪れ、大阪の橋の歴史や今後の展望を伺いました。
大阪公立大学大学院 工学研究科 都市系専攻 教授
嘉名 光市
都市計画・景観デザインの専門家として、京阪神エリアを中心に数々の都市再生やまちづくりプロジェクトに携わる。 水都大阪の再生や中之島ガーデンブリッジでの橋上空間利用実験など、「橋を生かしたまちづくり」の第一人者。
――まずは、歴史の話からお聞きしたいです。なぜ大阪には多数の橋が架けられたのでしょうか?
「水都」という呼び名が表すように、大阪が発展してきた背景には水、つまり水路が深く関係しています。食品をはじめとした物資を運ぶため、江戸時代には、大坂のまちじゅうを水路が流れ、舟が盛んに行き来していたんです。心斎橋、天満橋、北浜など、現在も使われる地名に水にちなんだ語が多用されているのは、その名残。一方東京は、渋谷や赤坂など起伏に関する地名が目立ちますよね。この違いからも、大阪の水都としてのユニークさが読み取れると思います。そして、水路がたくさんあると、当然その上を行き来するための橋が必要になります。結果、「浪華八百八橋」とうたわれるほど、たくさんの橋が架かる都市になりました。とはいえ八百八はあくまで数が多いことを表す語であり、江戸時代に存在した橋は200本ほどだったようです。
――橋そのものにも、大阪ならではの特徴があるのでしょうか?
現在では考えにくいですが、当時の大阪は公設の「公儀橋」だけでなく、豪商を中心に町人たちが架けた「町橋」があり、しかも大多数を占めていたんです。例えば、現在は駅名としても親しまれている「淀屋橋」はその名の通り、江戸時代の豪商、淀屋が架けた橋。町橋の管理費は、近隣の町が捻出していたとされ、商人をはじめ地域の人々が一丸となってインフラを維持していたことがうかがえます。また橋の上や水辺は、広場のような公共スペースとして使われました。
――橋は開かれた場所だったんですね。商人たちは、はじめからそのような用途を想定して橋を建設していたのですか?
実は、そうではなく自然発生的に活用されるようになったんです。要因のひとつに、商業が栄えたのに広大な土地がなかった、という点があります。堂島では米、天満では青物が多く荷揚げされましたが、水路の近くの橋でもそれらの商品が売りさばかれていたようです。他にも四ツ橋は夕涼みの名所として親しまれていました。暑い日の夕方、四ツ橋のあたりに行くと海風が入ってきて心地よかったそうです。このように、橋は地域ごとに特徴を持ちながら、さまざまな形で利用されていました。
――都市計画やデザインが専門領域の嘉名さんが、まちごと万博を通して「大阪を盛り上げよう」と活動されている理由を教えてください。
もともと大阪・関西万博とも関わっていて、大阪府が基本構想を策定したときには、委員としてアドバイスを行い、開催決定後も、大阪ヘルスケアパビリオンの企画に携わりました。しかし万博だけでは、大阪のまちなかは元気にならないのでは? と疑問も抱いていたんです。1970年の「大阪万博」にはじまり、1990年の「花博」、そして今回の夢洲での万博――実はどれも大阪の中心地ではないんですよね。世界に目を向けると、ロンドンやパリは都心で万博を開催しています。本来、万博は開催地域と響き合って盛り上がることが重要。そう感じていたときに、まちごと万博に出合い、私たちの活動もエントリーしました。
――橋をコミュニティ活動の舞台にする嘉名さんたちの取り組みは、今後の大阪にどのような影響を与えると思いますか?
まず万博が行われるタイミングだからこそ、行政と民間の枠組みをこえて、普段ならできないようなトライアルができたと思うんです。万博が開幕してからは「自分たちは『大阪のまち』というサテライトパビリオンをつくって、来場者を迎えているんだ」という思いがますます強くなりました。万博がきっかけで大阪を訪れた国内外の人々が、「大阪っておもろいな」、「素敵だな」と思うきっかけを与えられたらうれしいですね。
――大阪人が自らまちで楽しむ姿が、サテライトパビリオンのプログラムになると。
そうですね。大阪人って、もともと公共空間を使うのが上手なんですよ! 最近はグラングリーン大阪やなんば広場がオープンし、御堂筋の歩道拡張も話題ですよね。しかもそれらに対して、肯定的な反応が多い。グラングリーンなんて、初日からラグを敷いて寝転がったり、ピクニックをしたりと利用者の自由な雰囲気が漂っていましたから。鉄道会社をはじめとした民間企業や、地域団体が積極的に管理運営に関わるのも、大阪のパブリックスペースの特徴です。まちへの奉仕精神が強いのは、豪商たちのDNAが息づいている証かもしれません。
――橋は、大阪のまちの発展に重要な役割を担っていたことがわかりました。ブリッジテラスの活動内容や目的を改めて教えてください。
ブリッジテラスは、まちの人々が担ってきた町橋のムーブメントを再興する活動です。2009年に前身となるイベントがはじめて開かれ、2021年にパワーアップして復活。会場を増やしながら継続的に開催しています。今回の「2025春」は中之島ガーデンブリッジ、錦橋、水晶橋、そして現役の橋としては大阪市最古の橋である本町橋の4橋を会場に、約1カ月にわたってリレー形式で開催。橋をテーマにしたイベントとしては、全国でも例を見ない規模感になりました。
――今回のイベントで特に印象に残っていることはありますか?
橋ごとに地域性を生かした企画が展開されたのが有意義でした。中之島ガーデンブリッジでは、通勤途中や休憩中に通りがかってイベントを知り、後日マルシェを訪れてくれた人も。さらに最終日に実施した盆踊りでは、中之島と北新地、二つの町会の浴衣を着て踊ったんです。食事や休憩に使うスペースは、近隣のホテルがテーブルとイスを快く貸し出してくださり設置できました。どれも、まちをつなぐ橋ならではの象徴的な風景でした。われわれが提唱する現代版町橋制度は、行政と民間が手を取り合い、公共空間としての橋の利用を活発化させる仕組みなんです。その定着にまた一歩近づいたと実感しています。
――橋を使いやすいように行政がサポートするのが、現代版の町橋制度なんですね。この仕組みが浸透すると、行政と民間にはそれぞれどのようなメリットがあるのでしょうか?
橋ににぎわいが創出され、経済活動を含む多彩な活動の受け皿になるだけでなく、住民がより地域に関わりやすくなると考えています。清掃など維持管理に積極的に参加する人が増えれば、美観が保たれるだけでなく、まちへの愛着にもつながるのではないでしょうか。しかも以前と比べると、橋や道路を管轄する行政の意識も変わってきて、民間による利活用に柔軟に対応してくれるようになりました。以前はお酒を飲んだり、キッチンカーで出店したりできませんでしたからね。橋の上で発生した収益は橋の維持管理費に使うなど、公共に還元していく仕組みをつくれば、行政にとってもプラスになります。北九州市をはじめ全国の先進事例を調査し、大阪に落とし込む中で、少しずつ変化を感じてきました。
――嘉名さんが思い描く「大阪の橋がこんな姿になったらいいな」という理想像は、どのようなものですか?
今はまだ、橋はまちの外側にあるもの。物理的にはまち同士をつないでくれているのに「どちらのものでもない」存在なんです。そんな橋が将来的には、誰でも集まれる広場のひとつになればと思います。河川に架かる橋は、別の角度から見ると、それぞれのまちの端にある“縁側”のような場所。イベント期間じゃなくても、カフェやビアガーデンが常設されて「仕事終わりにふらっと立ち寄ろうか」と思われるスペースになったらうれしいですね。しかも周りに視界をさえぎるものがないから、都心には珍しい、見晴らしのよいスポットでもあるんです。「あっちの橋で、なんだか面白そうなことをやっているぞ」とワクワクを発生させる装置にもなると期待しています。
――あらゆる可能性を秘めた橋、そしてそれらを内包する「サテライトパビリオン」である大阪のまちは、万博後に何を残してくれるでしょうか?
橋とまちづくりの社会実験は、万博がきっかけで加速しました。この勢いのまま、大阪都心の目玉の風景として受け継がれていってほしい。そのためにも、ブリッジテラスの取り組みをもっと広げていきたいです。中心部だけでなく、郊外と連動するような試みも面白そうですね。いつか橋の上で活躍する人たちが「あの万博のときから、橋で楽しいことをするようになったよね」と振り返ってくれるときが来たら、この“パビリオン”もレガシーを残したといえるのではないでしょうか。
取材・文:山瀬龍一
写真:前田和泉/はまだみか
企画・編集:人間編集舎